昭和42年12月2日 朝の御理解
信心の心得の中に、「出産の時、よかり物によかるより、神に心を任せよかれよ。」という、信心の心得の条にございます。「出産の時、よかり物によかるより、神に心を任せよかれよ。」信心させて頂く者の、心得というものが、皆さんの、信心の中にあるだろうか。信心させて頂いておるから、これだけは、心得ておかなければならない。これだけは、心掛けておかなかればならない。心掛けも、何もなしに、信心は出来ません。ただ、お参りさえしておれば良い。お取次を頂いてお願いさえしとけば良いと言うのじゃない。信心させて頂く者の、心掛けとして、どうあらなければならないかと。これだけは、覚えておかなきゃ出来ん。これだけは、心掛けておらなければならない。信心させて頂く者は、ね。これは、様々な、仕事、商売、事業なさっておられる方達は、その事業なさるのに、これだけは、自分のところの、生き方、信条だと、心掛けだと。という様なものが、やはり、あらなければならないように、信心させて頂く者の上にも、その心掛けが大事である。
出産の時に、よかり物によかるよりと、こう仰る。出産は、これは、女の方達にだけに対する御教えじゃないように思う。様々な信心をさせて頂いておって、おかげを頂く。ひとつの願いを立てて、その願いが、段々、成就して行く。おかげになって行く。おかげに近づいて行く。ために、心掛けとして、どうあらなければならないかと。よかる物によかるより、よりかかり物という意味でしょうね。これは、あちらの方言を使っておいでられますけれど。女の方が、出産をする時に、いろんな物にしがみついて、例えば、出産のおかげを頂く。そういう時に、そういう、しがみつく物がです。よかる物にしがみついてならというものではなくて、神に心任せてと、こう。神に心任せて、おかげを頂かなければならないと言う、心掛けです。私は、ここんところまで、一つ、一切の事に、安心の出来れる、おすがり甲斐のある神様を頂いていきたいと、こう思う。いよいよの時になってから、慌てる。いよいよの時になって、信心が緩む。これでは、おかげの頂きようがない。私は、この御教えをですね。・・・
今日は、久留米の、いきの?上の、井上さんのお宅に、今日、地鎮祭がございます。今度、借家が何軒か建ちます。その地鎮祭を奉仕してくれという事でございますから。今日は、若先生が、親教会の大祭の御用に参りますので、私が行かなければならない事になる。お祝詞をを作成しなければならん。どういう様な、その祝詞の芯になるものは、どういう風なところであろうかと。これは、まぁ、常識に考えて、この土地に対する、お粗末ご無礼があるところを、お許しを頂き、これから、大工、左官は言うに及ばず。どのような職人さんがたが入って、まぁ、一軒の家を立ち上げて行く訳でございますけれども。そういう匠達の、技の上にも、怪我あやまちのないように、どうぞ、立派な家が建ちますようにという事を、願わせて貰うなら、その祝詞の芯だと、私は、思うておった。これは、常識でございますよね。だから、どこの先生のお祝詞を聞かせて頂いても、そういう事が、祝詞言葉で、奏上されるだけの事でございます。ところが、何と、私に下さる事は、どういう事かと言うとですね。例えば、出産のお知らせであった。全然、関係が無いごとあるですよね。女は出産をする時に、よかり物によかって、出産するのではなくて、神様に、心任せて、いわゆる、お産のおかげを頂けと、こう。これは、信心させて頂く者の、心掛け、心得として教えておられる。ほんなら、これから、例えば、普請をする。信心させて頂く者の、普請をさせて頂く者の心得というものを心得て、普請をしなければならないという事になる。信心して、お商売させて頂いておる者は、こういう心を持って、お商売に当たらなければならないという事になるのである。
出産と、普請。全然、違うようにありますけれども、本当言うたら、やはり、同じ事である。あちらのお婆ちゃん達は、アメリカの方へ、若い時に行っておられるんですよね。縁に働かれて、ある意味での成功を遂げて、久留米に帰られた。そして、当時は、見事でございましたでしょう、あの、現在の住まいを建てられたり、土地を買われたり、その土地の一部である。そこには、畑、野菜が作ってあった。今まで。むろん、今までは、野菜がですね、その土地から生まれておった。年々歳々、様々な、お野菜が、その土地から、本当に、限りなく生まれておった。そこの土地を、今度は、家を建てる地に定められて、そこに、家を建てられるという事は、そこに、今度は、家が生まれることになった。その土地に。ですから、この家が、また限りなく、繁盛して行くところの、おかげを蒙って行かなければならないために、今日の地鎮祭はあるのだと。だいぶん、私共が、常識で考えておるところと違うのである。してみると、まず、今までです、限りなく、生み出されておった。大地から生み出されておった、お野菜ならお野菜を作って来た、その事に対する、まず、いやび・?まつらんという事は、お礼を申し上げにゃならんという事は、まず、そこんところから、お礼を申し上げなければならないという事。そして、このたび、このような、蒔き柄?で、ここに、家を建てることになりましたが、なるほど、家を立ちあげさえすれば、それで良いというのではない。大工左官に至るまで、怪我過ちが無いだけではいけない。それから、その家が、また、繁盛して行かなければならない。その事を願わせて頂くためにです。神様一筋に、お願させて貰うて、おかげを頂いて行かなければならない。あれにすがり、これに、よかり物によかるという様にです。よかっても、私は、おかげではなくて、ただ、先生に来て頂いてから、払い清めをして頂くという様なものではなくてです。そういう、根本的なところを教えて貰い。根本的なところに、お礼を言うて貰うて、そして、これからの事の願いもさせて頂くというのが、まぁ、お道でいう、地鎮祭である。しかも、そういう、私は、心掛けを持って、家を建てなければならないという事。
今日は、私は、井上さんところの地鎮祭を通してから、出産の御教えであるところの御教えと、どうおいう風な係り合い、繋がりというものがあるかという風に、感じたんですけれども。よくよく考えると、やはり、生み出されて行くものである。からには、そこに、ほんなら、その心掛けというもの。信心させて頂く者の心得というものを、私は、様々な場合にです。果たして、自分は、信心をさせて頂く者の心得を持って、こういう心掛けで、今日一日、お商売をさせて頂くのだ、仕事をさせて頂くのだという、一つの芯が、一日の中になからなければ、信心させて頂いておるものとは言えない事になる。
柔道なんかをなさる人達がです。段々、上達して参りましてね。もう何段という、有段者になって参りますとですね。第一その、身の構えが違ってくる、普段の時でも。おのずとその、心得といった様なものが出来てくる。寒かりゃ、こうやって、腕づくろいしてから、道を、こう歩いておるという様なのが、普通の人。ポケットに、手どん入れちから、こう歩いておるのが、いわば、柔道なら柔道、武道なら武道の心得のない人の姿である。それでも、その柔道を会得させて貰っておる。柔道の、いわば、名人とは言わんでも、ならんでもです。柔道の心得のある人は、決して、腕むつくろいでもしたり、ポケットに手でも入れたりして、道を歩かない。もし、ポケットに、手ども入れちから、こうした時、後ろから、っとこう、はがいじめにですね。こう後ろから抱きつかれたら、もう動きが取れない。そのために、必ず、手は、こうやって出しとって歩くという事である。剣道をする人達が、段々、剣道の道が分かってくるとです。決して、この道を歩くでも、曲がり角を、早道して曲がるような事は、決してしない。出会い頭に、ぽんとやられたら、もうお終いなんです。だから、遠回りをする。この道の角を通らずに、道が、こうあるならですね。外回りをする。そすと、向こうから、何が来ておるとか、すぐ分かる。抜き打ちを食らう様な事はない。という様にです。剣道の道は剣道の道、柔道の道は、柔道の道でですね。段々、体得させて貰うと、そういう心得が要るという事であり、いや、心得が、段々、身に着いてくる、そういう様な事が、日常の中に。それこそ、段々、そこに名人になってくると、剣道する人なら、確かに、三寸で身をかわすといった様な、神技と言われるような技も身に着いて来ましょうけれどもです。そこまで行かんに致しましても、そういう一つの、心得、心掛けというのが、段々、身に着いてくるように。お互い、信心させて頂く者がです。信心が、段々、分かってきたらです。そういう信心が、私は、その心得と、わざわざ言わんでもです、身に着いておらなければいけない。果たして、皆さんに、どれ程の信心の心得がですね、身に着いておるだろうか。必ず、例えば、外出をさせて貰う時に、必ず、御神前に出て、只今から、どこどこにやらせて貰いますというように、神様にお願をさせて頂いてから外出するといった様な、これはもう、絶対、一つの心得ですはね。
昨日、関さんが言うておられます様に。弘子さん、あんたが、高良内ば出る時に、願うち来じゃったろうがのち。そるきん、こういう、例えば、昨日、まぁ、ちょっとした事故ではあったけれども、事故に合うたろがのと。いわゆる、心得というものを、心としていなかったところに、そういう事になったんですよ、いうならば。あら、今日は、拝むとを忘れてきたと思うたら、そこででも良いから、お詫びさせて貰うて、そこででも良いから、私は、御祈念でもさせて頂くという様な心得、心掛けが要るんだとこう思う。それに、何ぞや、神様のかの字も言いよらん。信心させて頂きよるものが、如何にか、合楽に、こう、向かうて来ておってもです。心掛けなし、心得ずに、私は、そういう事は、心得を、間違えた心得で、向かってきたって、本当な事にゃなってこない。お互いが、日々です、有難いおかげを、一つ、生み出して行かねばならん。そこに、ほんなら、安産的なおかげの頂けれる。安心して、生まれてくるところのおかげを頂かせて頂くためにはです。どういう心掛けがあるかと言うと。心配する心で信心をせよと仰るような心得。ただ、心配ばっかりして、あれに頼り、これにすがりするような事では、それは、よかる物によかっている様なもの。心配があるなら、あるほどに、自分の心に、神様を頂いて、神様に、一心におすがりさせて貰う。改まって願う。磨いて願う。修行として頂いて、願うという様な心得というものがです、身に着いてこなければならんのでございます。今日のおかげだけを願う。どうぞ、安産だけを願う。そして、よかる物によかっとって、本当のおかげを頂ける筈がない。どうぞ、一つ、第一私は、思う事はですね。言うまでに、限りなく、その土地から、野菜なら野菜が、どんどん出来ておる。その事のお礼、いわゆる、雅祀るという事ですね。今日、ここにおかげを頂いて来た事を、まず、お礼を申し上げにゃいかん。今から、いわば、( ? )その事の、お礼が、しっかりなされなければいけない。なるほど、お礼を先に申し上げなければならん事が分かる。苦しい中にも、昨日まで、このようにして、おかげを受けてきた事を、お礼を申し上げなければならん。そして、今日の事を願わなければならん。願うというても、神様に、一心にすがっての願いでなからなければならない、という様な事が分からせて貰います。
「出産の時、よかる物によかるより、神に心を任せよかれよと。」これは、女の方が、出産をするという時だけの心得ではない。もちろん、その時の心得でもあるけれども。私共も、おかげが生み出されてくる為の心得でもあるという事を分からせて貰わにゃならんと思いますね。どうぞ。